舞台『渦が森団地の眠れない子たち』 感想

 

※以下、書き溜めた文章はあくまで個人の考え・想いです。

※稚拙な文章で申し訳ございません。

 

 

 

 

 

 

 

渦が森団地の眠らない子たち 感想

おそらく震災を経験した後の日本で、よくある団地を舞台にした物語だ。

一人のよく言う”ガキ大将”が、団地の子供たちを取りまとめ、暴力と言葉で圧政を敷く。たかが子供の言う事行う事、大人の私たちからしたら憎らしくも可愛らしいその行動も、「自分が子供だったなら」と考えると、その圧政に屈服していただろう狂気を感じることができた。

止める人もいない、叱る人もいない。誰にも見られていない環境がこの狂気を生み出した。

 

「ガキ大将」である鉄志は、ずっと誰かに「見て欲しい」と思っていたのではないだろうか。自分の父親は家を出たっきり、母親は自分の妹である圭一郎の母親を目の敵にし、圭一郎よりも優れることを鉄志に強いた。

彼の一番身近にいた両親は、二人とも鉄志自身を見ていない。だから金を配り、圧政を敷き、団地の子供たちを侍らせた。それは遥かに空しい行為であると我々観客は思った。もしかしたら鉄志自身も少しは感じていたかもしれない。

圭一郎の妹だけは彼を見ていたが、初めて等身大の自分を見透かされた鉄志は、その目から逃げてしまう。怖かったのかもしれない。見透かされ、裸にされてしまえば、何もない自分に気づいてしまうから。

彼は母親から見てほしかった。等身大の自分に気付いてほしかった。しかし母親はそれができなかった。母親自身も、見られていなかった(と思っている)から、自分の息子に同じことしかできなかった。

 

この作品における「見る」という行為は「愛情」であると思う。等身大の相手を受け入れ、見ること。そして干渉すること。それは誰もが持ってる偽りの仮面をはがす行為だ。虚勢を張らずに、等身大の自分のままでコミュニケーションを取れる人は自分の身近に存在しているだろうか。

そう考えた時、鉄志(後に圭一郎も)はなんて気の休まらない日々を送っていたのだろうかと思ったのだ。私には素のままで話し合える家族・友人がいる。勿論仮面を作るときもあるが、全てではない。


鉄志はおそらく、愛情の行き先を圭一郎に求めたのだ。この気の休まらない団地で、なによりの血縁者に。ひどい暴虐ぶりだったが、不器用なりに彼は圭一郎を見ていたのだ。だからこそ、裏切られたときに誰よりも攻撃的になった。
そして圭一郎、彼は一見優しい母と自分を兄と慕ってくれる妹に囲まれ、愛情を享受しているかのような家庭環境に見えた。しかし、きっと等身大の圭一郎はもっと違うところにいた。
圭一郎も、自分の異質さに戸惑い、憂い、さらに団地での鉄志による脅迫に仮面を張り続けた子供だ。


そして圭一郎にとって鉄志は、初めて等身大の自分を見られてしまった人物だ。
最期の鉄志の「見ているからな」は、きっと圭一郎にとって深く刻み込まれる言葉だったのではないだろうか。
それは愛情かもしれないし、大人になった圭一郎にとっての関になっているかもしれない。そんなことを思った。

 

 

 

 

 

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つらつらと書き綴った上記は、最後の「見ているからな」について悶々と考えてしまった私の殴り書きです。千秋楽公演を見てからだいぶ時間が経ってしまいました。

感想書くうえで、こんな解釈風に書くならば「社会の縮図」なり「不完全な大人」等のワードも入れた方が完成度高そー!!なん思いましたが、私は一般人なので文章が上手くありません。無理でした。

蓬莱さんの作品を初めて観劇させていただき、ああまた私は素晴らしい人に出会ってしまったなという気持ちです。これからチェックしていきますね。

実際、沢山のアーティスト・クリエイターの方が「東日本大震災」にインスピレーションを受けて作品を作られているので、やはりあの震災は色んな方に影響を与え、色んなメッセージを想起させたのだなあと思います。

私は震災当時仙台の高校にいましたので、緊急地震速報が鳴り、揺れて、家に帰り、1~2週間ライフラインのない生活を送りました。あの余震の恐怖はよく覚えていますし、懐中電灯付きラジオから流れる津波行方不明者の数に驚愕したのも覚えています。

きっと渦が森団地の子供たちは、あの恐怖から脱しきれていない。恐怖と隣り合わせの不安定な心は、子供を気丈に振舞わせるのかもしれない。そんなことも思いました。

また、感想を殴り書きしそうになりそうなのでここまでにします。

 

こんな駄文を読んでくださり、誠にありがとうございます。