「ボーイズ・イン・ザ・バンド~真夜中のパーティー」を観て

 

※以下、書き溜めた文章はあくまで個人の考え・想いです。

※稚拙な文章で申し訳ございません。

※舞台のネタバレがあります。ネタバレが嫌な方は読まないようお願いします。

 

 

 


原作:マート・クローリー

演出・上演脚本:白井晃

 


>あらすじ(以下公式サイト引用)

真夏のニューヨーク。アッパー・イーストサイドにあるマイケルのアパートでは、ゲイ仲間のハロルドの誕生日を祝う準備が進められていた。次第に仲間たちが集まりパーティーが始まろうとしている時、マイケルの大学時代の友人、アランがやってくる。唯一のストレートであるアランの存在はマイケルたちの感情に変化をもたらし、雰囲気が徐々に険悪になりつつある中、パーティーの主役であるハロルドが現れる。パーティーは更に荒れ、マイケルは強引に「告白ゲーム」を始める。それは、心から愛している、または愛していたと思う相手に電話をかけ、直接「愛している」と告げると言うものだった。これをきっかけに、それぞれの過去や本音が暴露されていく。

 


果たして、それぞれは誰に電話をかけ、どんな告白をするのか。そして、マイケルにゲイであることを隠していると責められるアランは一体誰に告白の電話をかけるのか。

やがてパーティーが終わったあと、男たちはどこへ向かうのか……。

 

 

 

 


というあらすじです。1968年にオフ・ブロードウェイで幕を開けた作品であり、当時はなおさら性的マイノリティへの風当たりが強く差別されていた時代に、ホモセクシュアルの真実を描き話題となった作品だそうです。

こちら、なぜ「boys in the band」なのでしょうね?ウィキペディアを引用してしまい申し訳ないですが、映画『スタア誕生』でジェームズ・メイソンがジュディ・ガーランドに言う台詞 "You're singing for yourself and the boys in the band." から取られたらしいです。「あなたは、あなた自身と、バンド仲間たちのために歌うんだ」。ここに、マート・クローリーさんはどのような意味を込めたのでしょうか。

 

 

 

脚本・演出の白井晃さんは、劇中の「自分たちのことをこんなに嫌いじゃなかったら」という台詞に対し、「みんなそういう闇を持っているわけです。登場人物がみんな、自分がゲイであることを本当のところはマイナスだと考えているけれど、置き換えると、同様なことが誰の中にもあるのではないかと思っているので、そんなところまでもっていけたらいいなと思っています。」とおっしゃっています。私は、元の脚本を知らないので、マート・クローリーさんとの違いを見つけることはかないませんでしたが、私なりの感想を綴っていければと思います。

 

 

 

このコロナ禍での公演ということで、チケットには氏名電話番号記載必須、入場前には体温測定と手指消毒、席は感覚を開けながら、前3列はフェイスシールド着用。コロナ対策の難しい業種で、真摯に対応してくれていたと思います。今回の舞台に関わった全ての皆様、この作品をを届けるために尽力してくださりありがとうございます。私たちが出来ることは、ひとりひとりか能動的に感染症対策を行い、お金を払い、脚本演出家・そして演者とスタッフが作り上げた作品を受け止める事だと思います。いや本当にマジでありがとうございます!

 


では、改めて作品の感想に入ります。

前情報なしで臨みましたが、各キャラクターにしっかりとしたバックグランド(これまで辛酸をなめながらも生きてきた歴史)があり、真夜中のひとときのパーティでそれらが明るみになる。一層彼らの言葉に重みが出ていたと思います。

アメリカ的なのかどうか、それとも演出なのかどうかわかりませんが、まるで彼らは喧嘩を売るように相手を煽り、馬鹿にし、説き伏せ、ヒステリックに気性を荒立てる。まるで性的マイノリティは狂ってないと正気を保てないと言わんばかりですが、その通りなのでしょう。体と矛盾した精神は一番に彼女(彼)らを混乱させ、そして社会との乖離は絶望をもたらします。アランは劇中でエミリーのことを「まるで化け物」と言います。性的マイノリティは人間ではないと言っているようなものですが、当時彼女(彼)らは社会からそのように言われ、扱われていた。50年経った現代、LGBTという言葉が出てきた現代で、私たちは差別のない社会を作れているでしょうか?

答えは明白ですね。

 

 

 

マート・クローリさんの「boys in the band」を通して、白井晃さんが何を伝えようとしてくれたのか。性的マイノリティに限らず、社会と馴染めない人は多く存在しているでしょう。どんなコミュニティにだってマイノリティは存在し、今現在も傷つき、憔悴している。私たちは知らなくちゃいけないのかもしれません。自分の身近な「傷ついた人」にひと言やさしく声をかけるだけで、もしかしたら世界から差別が少なくなるのかもしれません。

 

 

 

 


・・・・・・そう他人事じゃ駄目なんでしょうね。誰しもがどこかのコミュニティではマイノリティであるかもしれない。社会に馴染めずに心をすり減らしながらかろうじて生きているのかもしれない。彼女たちは私たちです。(と言っても、程度は異なると思いますが)マイノリティを認めるということは自分を認めてもらうことに繋がるのかもしれませんね。白井晃さんは誰にでも「自分のことをこんなに嫌いじゃなかったら」と思うような心の闇を誰しもが抱えているのではとおっしゃっていました。そこから、「彼女たちのようなマイノリティを知らなくちゃいけない」「彼女たちは自分である」そういったことを言いたかったのかなあなんて思いました。問題提起ですね。

 


ただ、そこまで表現されていたかどうかは私にはわかりませんでした。観劇後検索してそのようなインタビューがあったことを知った次第ですので、正直わかりませんでした。私の理解力不足ですかね。

私は、例えば社会に出て所属するコミュニティでのマイノリティになったとしても、馴染めなくとも、「自分のことがこんなに嫌いじゃなかったら」と思っても、”社会的に差別を受けている立場の人たち”とは全く状況が異なると思っています。私はちゃんと働き安定的な収入を受けていれば銀行の融資は通りますし、異性のパートナーとであればアパートの審査にも落ちることはありません。女だからという理由で差別はあるのでしょうが・・・いわゆるインタビューで白井晃さんがおっしゃっていた”同様なことが誰の中にもある”というのは少し捉え方が私とは違うなと感じました。彼女(彼)らの生きにくさは社会構造的な生きにくさであって、所属するコミュニティを抜けたって生きているかぎり付きまとってくる枷なのではないかと思うんですよね。すごく抽象的で言葉足らずで申し訳ないです。

 


1968年に公開された作品を、2020年に上演する意味を考えた時に、これは再度「差別はなくなっていないんだぞ」と警鐘を鳴らすための上演だったのかもしれません。

それは、1968年にマート・クローリーさんが「ホモセクシュアルの真実」を描くことで人々に性的マイノリティを周知させたように、認識させたように、半世紀経った現代では「じゃあ次の段階に行こうよ」というメッセージなのかもしれない。うーん、良くとらえすぎですかね。

ただ、1968年と同じメッセージでは意味がないと思います。まだ周知が足りないと思うのであればさらに一歩踏み込んだ白井晃さんなりのメッセージが付加されてもおかしくないと思うので、そうなのかな?と勝手に妄想した次第です。うーん、難しい。

 

 

 

最後にタイトルについて。彼女らがあの時代にホモセクシュアルとして生きていけたのは、コミュニティでは孤独であっても、マイノリティとしてのコミュニティがあったからです。その中にも疎外感を感じている人がいたかもしれませんが・・・。だからこそ、仲間のためにゲイであり続ける。エモリーがマイケルに言われたにも関わらず早々に演技をやめたのは、あの場で、あの小さなコミュニティで全員がゲイであることを隠せば、より大きな社会というコミュニティになんて出られなくなるからではないでしょうか。自分自身を、そして仲間を否定することに繋がるからこそ、仲間のためにゲイであり続けなくてはならない。マート・クローリーさんは彼女たちのそのひたむきさを称えてタイトルの「boys in the band」に思いを込めたのではないのでしょうか。・・・・なんてことを妄想しました。ただ取り繕うのが面倒だっただけかもしれませんが笑。

 

 

 

コロナ禍で地方公演有りの舞台。稽古から体制作りまで尽力されたキャストスタッフ全ての方に感謝です。

ありがとうございました。また、こんなくだらない私の感想が書き続けられる日常が戻りますように。