「ボーイズ・イン・ザ・バンド~真夜中のパーティー」を観て

 

※以下、書き溜めた文章はあくまで個人の考え・想いです。

※稚拙な文章で申し訳ございません。

※舞台のネタバレがあります。ネタバレが嫌な方は読まないようお願いします。

 

 

 


原作:マート・クローリー

演出・上演脚本:白井晃

 


>あらすじ(以下公式サイト引用)

真夏のニューヨーク。アッパー・イーストサイドにあるマイケルのアパートでは、ゲイ仲間のハロルドの誕生日を祝う準備が進められていた。次第に仲間たちが集まりパーティーが始まろうとしている時、マイケルの大学時代の友人、アランがやってくる。唯一のストレートであるアランの存在はマイケルたちの感情に変化をもたらし、雰囲気が徐々に険悪になりつつある中、パーティーの主役であるハロルドが現れる。パーティーは更に荒れ、マイケルは強引に「告白ゲーム」を始める。それは、心から愛している、または愛していたと思う相手に電話をかけ、直接「愛している」と告げると言うものだった。これをきっかけに、それぞれの過去や本音が暴露されていく。

 


果たして、それぞれは誰に電話をかけ、どんな告白をするのか。そして、マイケルにゲイであることを隠していると責められるアランは一体誰に告白の電話をかけるのか。

やがてパーティーが終わったあと、男たちはどこへ向かうのか……。

 

 

 

 


というあらすじです。1968年にオフ・ブロードウェイで幕を開けた作品であり、当時はなおさら性的マイノリティへの風当たりが強く差別されていた時代に、ホモセクシュアルの真実を描き話題となった作品だそうです。

こちら、なぜ「boys in the band」なのでしょうね?ウィキペディアを引用してしまい申し訳ないですが、映画『スタア誕生』でジェームズ・メイソンがジュディ・ガーランドに言う台詞 "You're singing for yourself and the boys in the band." から取られたらしいです。「あなたは、あなた自身と、バンド仲間たちのために歌うんだ」。ここに、マート・クローリーさんはどのような意味を込めたのでしょうか。

 

 

 

脚本・演出の白井晃さんは、劇中の「自分たちのことをこんなに嫌いじゃなかったら」という台詞に対し、「みんなそういう闇を持っているわけです。登場人物がみんな、自分がゲイであることを本当のところはマイナスだと考えているけれど、置き換えると、同様なことが誰の中にもあるのではないかと思っているので、そんなところまでもっていけたらいいなと思っています。」とおっしゃっています。私は、元の脚本を知らないので、マート・クローリーさんとの違いを見つけることはかないませんでしたが、私なりの感想を綴っていければと思います。

 

 

 

このコロナ禍での公演ということで、チケットには氏名電話番号記載必須、入場前には体温測定と手指消毒、席は感覚を開けながら、前3列はフェイスシールド着用。コロナ対策の難しい業種で、真摯に対応してくれていたと思います。今回の舞台に関わった全ての皆様、この作品をを届けるために尽力してくださりありがとうございます。私たちが出来ることは、ひとりひとりか能動的に感染症対策を行い、お金を払い、脚本演出家・そして演者とスタッフが作り上げた作品を受け止める事だと思います。いや本当にマジでありがとうございます!

 


では、改めて作品の感想に入ります。

前情報なしで臨みましたが、各キャラクターにしっかりとしたバックグランド(これまで辛酸をなめながらも生きてきた歴史)があり、真夜中のひとときのパーティでそれらが明るみになる。一層彼らの言葉に重みが出ていたと思います。

アメリカ的なのかどうか、それとも演出なのかどうかわかりませんが、まるで彼らは喧嘩を売るように相手を煽り、馬鹿にし、説き伏せ、ヒステリックに気性を荒立てる。まるで性的マイノリティは狂ってないと正気を保てないと言わんばかりですが、その通りなのでしょう。体と矛盾した精神は一番に彼女(彼)らを混乱させ、そして社会との乖離は絶望をもたらします。アランは劇中でエミリーのことを「まるで化け物」と言います。性的マイノリティは人間ではないと言っているようなものですが、当時彼女(彼)らは社会からそのように言われ、扱われていた。50年経った現代、LGBTという言葉が出てきた現代で、私たちは差別のない社会を作れているでしょうか?

答えは明白ですね。

 

 

 

マート・クローリさんの「boys in the band」を通して、白井晃さんが何を伝えようとしてくれたのか。性的マイノリティに限らず、社会と馴染めない人は多く存在しているでしょう。どんなコミュニティにだってマイノリティは存在し、今現在も傷つき、憔悴している。私たちは知らなくちゃいけないのかもしれません。自分の身近な「傷ついた人」にひと言やさしく声をかけるだけで、もしかしたら世界から差別が少なくなるのかもしれません。

 

 

 

 


・・・・・・そう他人事じゃ駄目なんでしょうね。誰しもがどこかのコミュニティではマイノリティであるかもしれない。社会に馴染めずに心をすり減らしながらかろうじて生きているのかもしれない。彼女たちは私たちです。(と言っても、程度は異なると思いますが)マイノリティを認めるということは自分を認めてもらうことに繋がるのかもしれませんね。白井晃さんは誰にでも「自分のことをこんなに嫌いじゃなかったら」と思うような心の闇を誰しもが抱えているのではとおっしゃっていました。そこから、「彼女たちのようなマイノリティを知らなくちゃいけない」「彼女たちは自分である」そういったことを言いたかったのかなあなんて思いました。問題提起ですね。

 


ただ、そこまで表現されていたかどうかは私にはわかりませんでした。観劇後検索してそのようなインタビューがあったことを知った次第ですので、正直わかりませんでした。私の理解力不足ですかね。

私は、例えば社会に出て所属するコミュニティでのマイノリティになったとしても、馴染めなくとも、「自分のことがこんなに嫌いじゃなかったら」と思っても、”社会的に差別を受けている立場の人たち”とは全く状況が異なると思っています。私はちゃんと働き安定的な収入を受けていれば銀行の融資は通りますし、異性のパートナーとであればアパートの審査にも落ちることはありません。女だからという理由で差別はあるのでしょうが・・・いわゆるインタビューで白井晃さんがおっしゃっていた”同様なことが誰の中にもある”というのは少し捉え方が私とは違うなと感じました。彼女(彼)らの生きにくさは社会構造的な生きにくさであって、所属するコミュニティを抜けたって生きているかぎり付きまとってくる枷なのではないかと思うんですよね。すごく抽象的で言葉足らずで申し訳ないです。

 


1968年に公開された作品を、2020年に上演する意味を考えた時に、これは再度「差別はなくなっていないんだぞ」と警鐘を鳴らすための上演だったのかもしれません。

それは、1968年にマート・クローリーさんが「ホモセクシュアルの真実」を描くことで人々に性的マイノリティを周知させたように、認識させたように、半世紀経った現代では「じゃあ次の段階に行こうよ」というメッセージなのかもしれない。うーん、良くとらえすぎですかね。

ただ、1968年と同じメッセージでは意味がないと思います。まだ周知が足りないと思うのであればさらに一歩踏み込んだ白井晃さんなりのメッセージが付加されてもおかしくないと思うので、そうなのかな?と勝手に妄想した次第です。うーん、難しい。

 

 

 

最後にタイトルについて。彼女らがあの時代にホモセクシュアルとして生きていけたのは、コミュニティでは孤独であっても、マイノリティとしてのコミュニティがあったからです。その中にも疎外感を感じている人がいたかもしれませんが・・・。だからこそ、仲間のためにゲイであり続ける。エモリーがマイケルに言われたにも関わらず早々に演技をやめたのは、あの場で、あの小さなコミュニティで全員がゲイであることを隠せば、より大きな社会というコミュニティになんて出られなくなるからではないでしょうか。自分自身を、そして仲間を否定することに繋がるからこそ、仲間のためにゲイであり続けなくてはならない。マート・クローリーさんは彼女たちのそのひたむきさを称えてタイトルの「boys in the band」に思いを込めたのではないのでしょうか。・・・・なんてことを妄想しました。ただ取り繕うのが面倒だっただけかもしれませんが笑。

 

 

 

コロナ禍で地方公演有りの舞台。稽古から体制作りまで尽力されたキャストスタッフ全ての方に感謝です。

ありがとうございました。また、こんなくだらない私の感想が書き続けられる日常が戻りますように。

 

 

 

まほろばの景 を観て



※以下、書き溜めた文章はあくまで個人の考え・想いです。

※稚拙な文章で申し訳ございません。

※舞台のネタバレがあります。ネタバレが嫌な方は読まないようお願いします。





※こちらは、今年の2月に観劇した舞台の感想になります。



まほろばの景


はじめに、まほろばの意味について。

まほろばは、「住みやすい場所」や「素晴らしい場所」を意味する日本の古語とのことらしいです。




公演を見終わったあと、暫く放心しながらもどうにか心を引き寄せてこの「まほろばの景」について考えました。正直、最後の怒涛の追い込みを、口を開けたまま見てしまい、ホテルまでの道のりはひたすらこの舞台について考えさせられました。


この舞台は、主人公が登山をしながら、道行く登山者に半年前行方不明になったかずよしくんについて聞くことで物語が進んでいきます。4人の登山者と出会い、話す度に彼の過去が徐々に明らかになっていく。

主人公は震災当時仙台で被災しており、家も流された。不倫していた女性との関係も切れた。その後仕事を辞め、熊本へのボランティアを経て障害者支援施設のヘルパーとなった。大きな出会いは、その施設で出会ったかずよしくんだ。かずよしくんを支援するうちに彼の姉とも顔を合わせる機会も多くなり、そして3人で暮らすようになった。

そしてある日、かずよしくんは主人公と散歩中に突然暴れだし、そのまま行方不明になった。


この舞台を作った柳沼さんは、「いきにくさ」を強く感じている人々を描きましたと仰っています。

過去の人々、それと相対する主人公、それぞれの生きにくさや日頃の生活で抱えている心のしこり、さらには喋っている相手への違和感、苛立ち。特に、主人公は何も言えない子でしたね。4人の過去の人物は主人公へ違和感や不満をぶつけてくるのに対して、主人公は相手へ強く言うことはしない。それは幼少の頃、神楽を覚える過程で父親から怒鳴るように指導されたのが原因でしょうか。萎縮した主人公は、その後の人生でも他人と衝突しそうになる度に自分の意見をはっきり貫き通すことはせずに、なにかを押さえ込んでいるように見えました。

なぜ、そんなにも自分に正直に生きられないのだろう。等身大の自分を見失っているのだろう。なぜ彼は、自分でもよくわかっていない自尊心で自分を守り続けているのだろう。

正直、私は彼や4人に対して非常に心無い感想を抱いてました。同情、憐憫、彼が自分に向けて欲しくないであろう感情を私は抱きました。


私も同じく被災した身であり、たまたま私も観劇した月に仕事を辞めるところだったからでしょうか。仕事を辞める理由なんて一つしかなくて、今のままだと自分は幸せになれないからで良いじゃないかとか思ったり。被災したけどもっと大変な境遇の人がいる以上、自分もなにかしなくてはいけないという強迫観念。いやいや、余裕あってやる気のある人だけで良いんだって、しかもあの状況で自ら仕事を探すなんて難しいし、私も全てが落ち着いてから近くの公民館の人手か足りてなかったのを知ったしなあとか思いながら見ていました。むしろ、自分の被災した状況と重ねすぎて舞台に集中できないほどでした。震災関連の舞台を被災者が見るとこうなるんですね。

小学校のプールの水を持ってって良いって近所から聞いたけど、学区全ての世帯に伝わっていなかっただとか、公民館には給水車目当てで沢山の人が来ていたけど中で避難していた人を看るための人手は足りていなかっただとか、給水所で仲の良いご近所さんと出会って話すときでしか私たちは私たちの身近な情報を得られませんでしたが、そんなもんだと思っています。明日の飯の確保さえ難しく、近場のスーパーやコンビニへ何回も足を運び、列に並びました。トイレを流すための水を得るために3つバケツを持って小学校のプールから自宅へ何往復もして水を運びました。私の家は津波に流されず、倒壊もせず、被災といえばライフラインが1週間ほど止まったことくらいです。私も中途半端に被災し、”頑張れば手伝えた”立場だったからこそ「もっと大変な境遇の人がいるなら手伝いにいかなくてはいけない」という彼らの強迫観念に甚だ異を唱えざるを得ません。そんなこと考えていたら生きづらいじゃないですか?ああ、柳沼さんは「いきにくさ」を感じている人を描いたんだったな~!!!すごくステレオタイプな考え方ですが、同郷の友人と主人公が話している場面を見ていたら、こういう男性いるんだろうなと思ってしまいました。



この人たちはなんて生きづらそうなんだろう!、ああそういう人を描いているんだった!の繰り返しが中盤まで続くのですが、そこからの終盤への怒涛の追い込みは圧巻でした。

正直に言うと、観ているときは何もわかりませんでした。4人の登山者と頂上へ目指し、主人公が叫び喚き何かを伝え、六根清浄と言いながら歩みを進め、雨が降り、神楽を舞い、雨か涙か汗か涎か何かわからないものを纏い流しながら後ろに設置してあった足場を登っていく。主人公が足場の頂上に着いたところで一つのオレンジ色のライトが後光のように照らされる。

そして一言セリフを放ち、この舞台は終わります。


放心状態で劇場を出て池袋駅への連絡通路に入り、この「まほろばの景」のポスターを見つけ、写真を撮った時にふと思いました。

まほろばって何だ?


そして冒頭に書いたように意味を知り、この舞台で伝えたかった事、主人公が最後に見つけたものはなんだったのか、主人公のこれまで、いきにくさを描いた意味、諸々を察しました。

いやはじめに気づけよ自分!!と己の無知を大変反省いたしました。



もしかしたら、罪の意識で登山したのかもしれませんが、登山と神楽の鎮魂はかずよし君に向けてだったのか、震災で亡くなった人たちに対してなのか。両方だったのかもしれません。

そして主人公にとって必要だったのはまほろばだった。人の生にどうしてもまとわりつく人間関係。人は一人では生きていけないというのは当たり前のことですが、時としてそれがしがらみとなることは誰もが経験していると思います。

私は学生時代に十分に人間関係の面倒くささを体験したので、大人になってからは面倒な人と関わっていないですし関係を継続してもいないです。この人と合わないと感じたら見切りをつけます。仕事ならば賃金という見返りがありますが、プライベートで無理をする必要はないんですよね。好きな人と好きなだけ付き合えば良いのですが、なかなか見切りを付けられる人がいない。そういう人はきっと、十分に心が痛めつけられてから、それが心が摩耗するだけの無駄な行為だったことを知るのでしょう。

居心地の悪い人間関係を続ける主人公、観劇中その不器用さを愛おしいと思うことはありませんでしたが、まほろばの意味を知った後は最後のまほろばを見つけただろう主人公に対して非常に安心感を抱きました。「良かったね!!!」と言いたい気分です。



まほろばは劇の中ではなく、現代で生きる私たちにも必要ですよね。「住みやすい場所」や「素晴らしい場所」を皆さんは持っていらっしゃいますか?私にはあるだろうか?これからも作り続けていけるでしょうか、自分にとってのまほろばを。



デスノート THE MUSICAL を観て

 

※以下、書き溜めた文章はあくまで個人の考え・想いです。

※稚拙な文章で申し訳ございません。

※舞台のネタバレがあります。観劇がお済みでない方、ネタバレが嫌な方は読まないようお願いします。

 

 

 

 

 

 

 

デスノートは愛の物語へと変換された。

 


というのが私のデスノート THE MUSICALを観た感想です。2.5次元ですし、原作に触れましょう。

 


DEATH NOTEの何がウケたかと言えば、小畑健先生の細部までこだわった美麗な絵、表現と、大場つぐみ先生のドキドキハラハラさせる頭脳戦、誰もが目的のために邁進したその熱量だと思ってます。犯罪だとわかりながらも正義だと自分を鼓舞し、正当化し続けた月は、自分に害をなす非犯罪者を殺す度醜くなっていきました。当初掲げた崇高な正義は、月にとって都合の良い正義へとだいぶグレードダウンしましたが、目的達成への努力は惜しまず、本気で取り組んでいました。月とLは全力でぶつかり合いをしていた、その全力さが面白かったんです。そもそも死神の目の取引をしなかった時点で、月の掲げる正義はかなりチープなものなんですけどね。

 

 

 

 

 

 

ミュージカルではどうだったか。頭脳戦はあまり描かれませんでした。おそらく、ミュージカル化するにあたってかなり悩まれたのではないかと思います。そして、レムのリサを守る原作の行動から、この主軸を構築していったのではないか、なんてことを考えました。逆に愛がテーマでなかったら、妹も刑事たちも父親もなんで歌ってるんだ?と単純に疑問が残ります。

 


愛の物語としてこの作品を見ると、主役2人(+リューク)が蚊帳の外にいるのがとても面白いと思いました。作品のテーマに一切触れないのにこの2人が場を動かす。その2人の行動に翻弄される者達は愛する人への愛を語る。

 


何でこんな風に思ったかと言うと、これは役者さんの力量もあると思うのですが、夜神総一郎が月への思いを歌ったとき、そして刑事たちが自分の家族への思いを歌ったとき、この二つの場面がめちゃくちゃ心に残ったからです。素晴らしかったです。

 


原作では熱い頭脳戦が中心だったDEATH NOTEで、なぜこの場面で心動かされたのか、考えなくてはいけないと思いました。

 


最後、愛を語った人間は生き、語らなかった2人は死にました。そして悲しいことに愛を語った死神は死に、語らなかった死神は生きました。なんとも皮肉ですね。人間と死神は条理自体違う存在であると突きつけられたけれども、レムがミサに向けて歌う姿は聖母のようでした。

ミュージカル版はかなり愛に焦点を当てて造られていたと思います。

 


では原作の良さは無視されたのかと言えば、それも違います。頭脳戦に焦点は当てられなくとも、2人はバチバチにやり合っていました。とても熱いぶつかり合いを見せてくれました。

そして2人の互いに対する考えや思いなどの描写や歌も多く、原作のLが死ぬまでの時間をミュージカル版は3時間弱に濃縮されてる点を考えれば、原作よりも熱かったのではないでしょうか。本当に彼らは閃光のように駆け抜けていた気がします。

 


少年漫画らしい熱さを失うどころかさらに盛り上げ、周囲の心の機微により密着した作品だったと思います。

これも脚本家の作風なのかと思いますので、彼の他作品がどんな感じなのか知りたいと思いました。

曲・詞・演出は何も言えませんね。素晴らしかったです。特に曲は流石としか言えない。正直DVDもしくはCD欲しいと思いました。

 

 

 

以下はその他雑談になります。

模木さんは、実写のみならずミュージカルでもドンマイな扱いで、そこは笑っちゃいました。

本当はキャラクターに触れたいと思ったのですが、月やLよりも夜神総一郎や刑事たち、レムの方に心が傾いてしまって書けそうにありません。

主役の2人もすごく魅力的で、予想よりも歌も上手かったです。でも月とLは天才で人間離れしている設定なので、もっと場を支配してほしかった感はありました。

外国の方脚本ということで、もしかしたら感覚的にこっちの漫画文化と捉え方が違うのかもしれないという新しい発見もありました。こちらの2.5って、大体が原作の決め台詞や決めゴマはかなり力を入れて忠実に扱われますが、「新世界神となる」「正義は必ず勝つという事を」等のこっちで(オタクにとって)印象深い台詞として捉えられてるものはあまり表に出ませんでしたね。リュークにいつ言うのかなって思ってたらいつの間にか歌に"新世界の神なのさ"ってワードが出てきた感じでした。もう神になったのかー。

おそらく英語版DEATH NOTEを読んで作られたからってのが大きいのでしょう。日本人にとって衝撃的な決め台詞や決めゴマも、英語版ではそうでもないのかもしれません。加えて、割と日本では原作を崇高なものとして扱いますが、海外の方はそこまででもない。原作との向き合うスタンス自体が違うなって思いました。勿論翻訳や根底にある価値観や共通認識の違いもあるのかなって思うのですが、これはこれですごく面白いなと思います。

 

舞台『刀剣乱舞 維伝』朧の志士たち を観て

 

※以下、書き溜めた文章はあくまで個人の考え・想いです。

※稚拙な文章で申し訳ございません。

※舞台のネタバレがあります。観劇がお済みでない方、ネタバレが嫌な方は読まないようお願いします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まず始めに結論。めっちゃ良い舞台でした!

 


2.5次元は久しぶりでした。理由は推しが出ない限り見ない。何故かと言うと当たり外れが大きい。外れた上にキャスト陣の技術面も心もとなかったら何を拠り所にすれば良いのか。そんなことを考えてしまうと、交通費往復3万払って行きたくないと思っておりました。薄給なもので。

当たり外れが多いというのは、毎回新作を作り続けているからであって、人気のシナリオを何回も公演する東宝系とは大きく異なるという意味です。(東宝さんも好きですよ!)

 

今回は昼間にシャボン玉を見て、夜も観劇できるなーと思って刀剣乱舞を選んだ次第です。

 

シナリオ・演出ともに圧倒されました!殺陣シーンがめちゃくちゃ多く、これぞエンタテインメントや!活劇じゃ!と言わんばかり。殺陣めちゃくちゃ良かったですね。衣装も映えてて、各主要キャラの色のスポットライトが差し込むところ、好きです。

舞台美術も、始めはもう少し装飾増やせば良いのに・・・えっ予算あるよね・・・?とか思ったんですけどめっちゃ仕掛けでしたね。めっちゃ変形するなあカッコイイなあと思ってたら、シナリオ上でも動いてたー!っていう。すべて計算されてましたね。

 

 

2.5次元なので、キャラクターに触れましょう。これが醍醐味なところありますよね。(数人しか書けません)


個人的に準主役では?と思ってしまった岡田似蔵。彼良かったですねー!!!好きなので最初に書きます。素敵でした。舞台のオリジナルキャラクターですが、丁寧にキャラ付けされてて、彼の人となり、悲しみ、葛藤、護りたいもの等など丁寧に深堀されて表に出て、自然と感情移入できました。彼を心から理解できるのは肥前のみ。そんな関係性も人間同士とはまた違う絆で結ばれている気がして美しく感じました。


小烏丸!私、ゲームでも小烏丸好きなんですよ。CV保志総一郎さんですし、小柄だし。この本丸の小烏丸めっちゃクネクネするなー!って最初思ってたんですけど、父ー!!って感じで非常に良かったです。何もかも先を見据えてて、たまに味方を試すようなことを言ったり。強者ムーヴ良いですね。声が低くなるところもめっちゃ良いです。


鶴丸!この本丸の鶴丸レベル高そうですね!ちょいちょい覇気出してましたよ。あー流石レア太刀は違いますわー!って感じの殺陣でしたし衝力と打撃MAX値だなって思いました。そしてめちゃくちゃ面白かったですね。彼のボケで何回も笑いました。ありがとう。三日月(のことだよね?)を絶対に救い出すと言っていたので、彼はもう自分の意志と信念を確立させた刀剣男士なんだろうなあ~強そうですね。


陸奥守!今回の主役ですね!(ですよね?)。こういうおちゃらけてるようで、大雑把だけど実はちゃんと考えているキャラクターはなんだかんだ背負ってしまうきらいがありますが、彼もまた心の内に元の主への想いをうまく隠しながら物語を進んでましたね。「こうなる気がした」ということは、きっと龍馬と出会ったときから不安で仕方なかったのでは?逆に出会ってから最後に至るまである程度時間がありましたから、ちゃんと考えて決める時間があったのは良かったのかもしれません。君の成長を見れてとても嬉しいよ。

 

全員書くにはさらに時間がかかってしまうので割愛します。

 

刀剣乱舞の設定上、必ず人間(刀剣男士も)が向き合わなくちゃいけない問題が、自分が経験した過去を経てどう前に進めるかどうかという点な訳ですが、さらに刀剣男士と対比させて感動的なストーリーになってましたね。過去にとらわれてしまい、やり直すことを願ってしまった龍馬(仮)と、正史を受け入れ、そして龍馬(仮)の想いさえ飲み込み前に進む陸奥守。どちらが強いんでしょうかね。私にはわかりません。

 

作中で南海が言っていたように、権現したての彼らの意識はどちらかと言うと道具寄りです。しかしながら、人の形を持ち、人の想いに触れた彼らは段々と自分の中に信念を持ち始めてますね!特に元の主と関わった刀剣男士たちはかなり変化していて面白かったです。人間の都合で権現され、戦わせられ、さらに今回のシナリオでは人の想い(欲望)によって生成された世界線の始末をさせられている。つくづく刀剣男士は道具として人間に使われているわけですが、芽生え始めた意志や信念が人間(政府)の意向と違えたとき、彼らはイレギュラーとして認定されるんでしょうね。

私はこのシリーズを全く見てなくて、三日月が円環にいる(まどマギですか?)と最後知ったときはどういうこと?!?!ってなったんですけど、政府から瑕疵扱いされているみたいなのであっ、政府そんな感じか~って思いました。

ただ鶴丸も小烏丸も今の主のこと信頼してるっぽいし、主が有能そうなので政府を出し抜いて円環にいる三日月もいつか助け出すんだろうなあって思いました。推測になりますが、最初に自分の意志と信念を確立させたのが三日月(違かったらすいません)ってところがまた流石最高位レアリティ刀は違いますねと思った。

艦これアニメの如月ショックみたいなことは起こらないと思うので(願望)、最後までみんな折れないことを祈ってますね。

結局この物語は、刀剣男士の成長物語であり、人間が持つ「過去を変えたい」という欲望との交錯で刀剣男士が変化・成長していく少年漫画的ストーリーだから、こんなに受け入れやすいのかなと思いました。

2.5次元の悲しいところは、どんなに良い舞台もイロモノとして見られてしまうところでしょうね。一般人は事前知識がないため、各キャラの設定や世界観を共有できず、ただただ?が浮かんでしまう人も多いと思います。けれど、客入り良いし何も心配しなくて良さそうですね。むしろ、ちゃんと2.5次元に出会い、楽しむことできるオタクはお得なのかもしれません。

 

 

 

てかあの目なんですか???最後までわかりませんでした。

シャボン玉とんだ宇宙までとんだ を観て

 

※以下、書き溜めた文章はあくまで個人の考え・想いです。

※稚拙な文章で申し訳ございません。

※舞台のネタバレがあります。観劇がお済みでない方、ネタバレが嫌な方は読まないようお願いします。

 

 

 

 

 

 

 

初めてシャボン玉とんだ宇宙までとんだを観劇しましたが、日本のオリジナルミュージカルでこれが1988年に公開されたことを考えると、今に通ずる普遍的なテーマをあの時代にここまでの形に仕上げたのかという驚きしかありません。昔って凄かったんだなあ。

単純にストーリーが心揺さぶられるものでした。なんで神様は佳代にここまでの困難を与えるのか。幸せから地獄への落差が大きすぎて超ジェットコースター。揺さぶられすぎてめっちゃ泣いた。

2人が想いを交わしあってからの共通点は、ひたすら相手を慈しむことでしたね。暴力的な義父から身を呈して守る。彼のために50万用意しようとする。彼女と時間を同じくするため10年待つ。他にもあったかな。互いのために身を削り、何かを与え合う。世界はこれを愛と呼ぶのでしょう。シャボン玉はまさしくラブストーリーです。

愛を語るだけのミュージカルは沢山ありますが、このミュージカルが公開されてから人気を博し、音楽座解体後から今日東宝を通じて再演されたのは、相手のために身を削り慈しみ愛を与える2人の姿が普遍的な尊さを秘めているからなのかなと思いました。あー好き。

逆に最初の佳代が虐待を受けるシーン、悠介と里美が遊園地でデートするシーンは意図してなのかわかりませんが、綺麗な対比になっていた気がします。自分の欲求のために相手を支配する義父、自分からは与えず相手から受け取るばかりの里美。こんな関係は愛ではないのだと最初に提示されたような気がしました。

何回か泣いたんですが、一発目泣いたのは1部後半、悠介が佳代の義父に立ち向かい、彼女への愛を語るところでした。宇宙人たちが涙を流し、佳代をバックアップすることを決意した場面です。宇宙人と同じように私も、悠介の愛に心を打たれました。

そこからは涙腺緩みっぱなしで何回も涙を流してしまった。悲しい場面多いし。

この物語は、佳代と悠介以外の愛も描かれてますね。それが宇宙人たちから佳代と悠介への愛情。ミラは身を呈して佳代を刃から守りました。

全く違う話をここで入れてしまうんですけど、私はこの作品を見て幾原邦彦監督の輪るピングドラム(アニメ)を思い出しました。輪るピングドラムの考察で私が1番好きなサイトがこちらになります→http://dangodango.hatenadiary.jp/entry/2019/01/20/233337


要は愛による自己犠牲をし合い、互いを助け合う。そんな輪を繋いでいこうよというメッセージの考察なのですが、佳代、悠介、宇宙人はまさしく愛による自己犠牲で繋がりあってますね。

「全ての地球人が佳代と悠介のようだったら良いのに」

ピアの台詞がこの舞台のメッセージであり願いな気がしました(個人的に)。全ての地球人が愛による自己犠牲をし合えば平和的に繋がりあえる。そうすれば諍いなど起こらないのではないか。

 


ここまでのビッグキャスト陣を携えて、東宝がこのミュージカルを上演してくれたことは感謝しかありません。東宝の担当さんにお礼状を送りたい。まじで。本当にありがとうございます。シャボン玉とんだ宇宙までとんだに出会わせてくれてありがとうございます。出会えて良かったです。

舞台『渦が森団地の眠れない子たち』 感想

 

※以下、書き溜めた文章はあくまで個人の考え・想いです。

※稚拙な文章で申し訳ございません。

 

 

 

 

 

 

 

渦が森団地の眠らない子たち 感想

おそらく震災を経験した後の日本で、よくある団地を舞台にした物語だ。

一人のよく言う”ガキ大将”が、団地の子供たちを取りまとめ、暴力と言葉で圧政を敷く。たかが子供の言う事行う事、大人の私たちからしたら憎らしくも可愛らしいその行動も、「自分が子供だったなら」と考えると、その圧政に屈服していただろう狂気を感じることができた。

止める人もいない、叱る人もいない。誰にも見られていない環境がこの狂気を生み出した。

 

「ガキ大将」である鉄志は、ずっと誰かに「見て欲しい」と思っていたのではないだろうか。自分の父親は家を出たっきり、母親は自分の妹である圭一郎の母親を目の敵にし、圭一郎よりも優れることを鉄志に強いた。

彼の一番身近にいた両親は、二人とも鉄志自身を見ていない。だから金を配り、圧政を敷き、団地の子供たちを侍らせた。それは遥かに空しい行為であると我々観客は思った。もしかしたら鉄志自身も少しは感じていたかもしれない。

圭一郎の妹だけは彼を見ていたが、初めて等身大の自分を見透かされた鉄志は、その目から逃げてしまう。怖かったのかもしれない。見透かされ、裸にされてしまえば、何もない自分に気づいてしまうから。

彼は母親から見てほしかった。等身大の自分に気付いてほしかった。しかし母親はそれができなかった。母親自身も、見られていなかった(と思っている)から、自分の息子に同じことしかできなかった。

 

この作品における「見る」という行為は「愛情」であると思う。等身大の相手を受け入れ、見ること。そして干渉すること。それは誰もが持ってる偽りの仮面をはがす行為だ。虚勢を張らずに、等身大の自分のままでコミュニケーションを取れる人は自分の身近に存在しているだろうか。

そう考えた時、鉄志(後に圭一郎も)はなんて気の休まらない日々を送っていたのだろうかと思ったのだ。私には素のままで話し合える家族・友人がいる。勿論仮面を作るときもあるが、全てではない。


鉄志はおそらく、愛情の行き先を圭一郎に求めたのだ。この気の休まらない団地で、なによりの血縁者に。ひどい暴虐ぶりだったが、不器用なりに彼は圭一郎を見ていたのだ。だからこそ、裏切られたときに誰よりも攻撃的になった。
そして圭一郎、彼は一見優しい母と自分を兄と慕ってくれる妹に囲まれ、愛情を享受しているかのような家庭環境に見えた。しかし、きっと等身大の圭一郎はもっと違うところにいた。
圭一郎も、自分の異質さに戸惑い、憂い、さらに団地での鉄志による脅迫に仮面を張り続けた子供だ。


そして圭一郎にとって鉄志は、初めて等身大の自分を見られてしまった人物だ。
最期の鉄志の「見ているからな」は、きっと圭一郎にとって深く刻み込まれる言葉だったのではないだろうか。
それは愛情かもしれないし、大人になった圭一郎にとっての関になっているかもしれない。そんなことを思った。

 

 

 

 

 

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つらつらと書き綴った上記は、最後の「見ているからな」について悶々と考えてしまった私の殴り書きです。千秋楽公演を見てからだいぶ時間が経ってしまいました。

感想書くうえで、こんな解釈風に書くならば「社会の縮図」なり「不完全な大人」等のワードも入れた方が完成度高そー!!なん思いましたが、私は一般人なので文章が上手くありません。無理でした。

蓬莱さんの作品を初めて観劇させていただき、ああまた私は素晴らしい人に出会ってしまったなという気持ちです。これからチェックしていきますね。

実際、沢山のアーティスト・クリエイターの方が「東日本大震災」にインスピレーションを受けて作品を作られているので、やはりあの震災は色んな方に影響を与え、色んなメッセージを想起させたのだなあと思います。

私は震災当時仙台の高校にいましたので、緊急地震速報が鳴り、揺れて、家に帰り、1~2週間ライフラインのない生活を送りました。あの余震の恐怖はよく覚えていますし、懐中電灯付きラジオから流れる津波行方不明者の数に驚愕したのも覚えています。

きっと渦が森団地の子供たちは、あの恐怖から脱しきれていない。恐怖と隣り合わせの不安定な心は、子供を気丈に振舞わせるのかもしれない。そんなことも思いました。

また、感想を殴り書きしそうになりそうなのでここまでにします。

 

こんな駄文を読んでくださり、誠にありがとうございます。

 

 

 

他ジャンルのオタクがeighterになりたかった話

 

※以下、書き溜めた文章はあくまで個人の考え・想いです。

※稚拙な文章で申し訳ございません。

 

 

 

 

きっかけは関ジャム完全燃焼の「雪の華」だった。 

ゲストの清水さん高嶋さんと共に奏でられた数分の音・画は私に多大な情報量を流し込んだ。

 

小学生の頃から漫画・アニメオタクで、20歳のときフィギュアのジェイソンブラウン選手のFS(トリスタンとイゾルデ)で涙を流し、22歳のときデビミュの内藤大希さんの演技と歌に圧倒され、自分でもミーハー気質を認めている私が、次に落とされたのは関ジャニ∞だった。

 

今思い返すと、ああこれが沼に沈んでいく過程だったのかと思うほど、上手い具合に綺麗に沈んでいったのだ。

 

雪の華の後何を見たのかといえば、彼らがメインパーソナリティーを務める「関ジャニクロニクル」である。一人暮らしのアパートに数日笑い声が響き渡った。日々の仕事に追われ、心労が重なって・・・というほど疲れてはいなかったが、関ジャニクロニクルは確かに私の笑顔の源になった。

 

関ジャニクロニクルをメインに、彼らのバラエティー番組を見るようになった。次第に彼らのキャラクターに対する関心や好感度が確立していき、やっとここでメンバーの顔と名前が一致した。そこから何が始まったかというと、彼らの過去のエピソード探しである。これがまずかった。

好きになったヒト・モノのこれまでの変遷は誰だって気になるもの。これまでのジェイソン選手しかり、内藤さんしかり、過去のプログラム・作品は必ず追えるものは追っていたため、自分でもなかなかのオタクでミーハー気質だと理解していたが、やはり今回も同様だった。

よくよく考えれば彼らは現在30代のキラキラしたおっさん。つまり過去のエピソードは数年どころではなく15年以上存在する以上、幾ら遡っても果てがない。永遠と続くのではないかと思うほどに遡り、数日睡眠不足の日が続いた。

 

そのかいもあって、十数年分の彼らの魅力を知ることができた。その頃には私は関ジャニ∞全員のキャラクターやパフォーマンスに対して自信をもって好きだと言えるようになった。

 

箱推しという言葉があるが、まさにその通りである。

加えてローテーションで推しが変わるのが今の私だ。

いま村上担だとして、三日後にはすばる担になり、さらに数日後には錦戸担になる。一人に絞ることができない、それほど一人ひとりが多くの魅力を持っている。多彩で努力家。登りつづけることへの貪欲さや、それを隠さないところに魅力を感じた。週刊少年ジャンプ好きの私にとって、初めてわくわくするアイドルだった。

 

それまで比較的供給の少ないものを追っていたため、毎週複数のメディアを通して推しを見れる・聞けるというのは私にとっては供給過多だったが幸せでもあった。ここでジャニーズの凄さを再認識したのも事実である。

そしてこのブログを書くきっかけになったライブ円盤

「KANJANI'S EIGHTERTAINMENT JAM」の発売日近づいた。

 

ここまでで、実質TwitterやTVを見ていただけの私は関ジャニ∞にお金を支払っていなかったのである(唯一村上君が出たpersonのみ)。オタク界隈では後ろ指刺されて生卵投げられても文句を言えない状態であるのは必至。何よりも”見たい”という思いが強かった私はBD版を購入。「綺麗な映像で見たい」「クロニクルで関ジャニ∞が好きになった」これがBD版にした理由だ。

 

結論から言えば、これは全ての関ジャニファンに見てもらいたいと思った。

 

彼らのライブパフォーマンスを初めて見た。何回も口角が上がった。聞き惚れて、見惚れて手拍子が間に合わないことも多々。再び彼らの多彩な姿を見ることができた。魂を絞り切りながら歌わんばかりのすばる君。ダンス見たさにマルチアングルでノスタルジアを見たらカメラと正対してるときは一切目線を外さない安田君の瞳に視線を奪われた。キャストだけじゃない、その時の衣装もダンスナンバーに合わせたのだろうと作り手の想いがわかるくらい動いたときの生地の流れが私を魅了した。全てが一丸となっていた。

 

 

 

 ここまでが、ライブ円盤を買ったときの私の書き溜めた思い。

ネットのライブ映像の違法アップロードを見つけて、思わず書いた次第でした。

下書きに保存し、いつかまとめて投稿するか。と思っていた矢先、本日2018/04/15にメンバーである渋谷すばるさんが退社する意向を発表しました。

 

 

私が関ジャニ∞に興味を持つきっかけとなった彼とその音楽が、新たな道へと旅立つという。

私個人としては傷つきたくない思いもあり、会見前の報道から俯瞰でしか語ることしかできませんでした。しかし、ネットニュースの他に別メディアでも会見するという報道がでていると聞いたため、面子的な意味も含めて、何かしらのお達しがあるのではないかとは思っていました。主観で受け入れるには、浅いなりにもファンだった私には時間がかかる作業というのはSMAPの件があったのでわかっていましたから、自分なりの心の逃げ道は作って今日を迎えました。

 

会見で語ったように、決断に至るまで彼らのなかでも様々な葛藤や想いがあったのは充分すぎるほど伝わりました。それを今日出席できるメンバーで会見に臨んでくださったのはひとえに憶測が広まらないようにするため、彼ら自身の言葉でeighterに届けるための場だったことは間違いようもありません。

 

完璧な自論であることをご了承ください。

アイドルというのは愛される偶像である、というのが消費者としての私の自論です。私は職業アイドルとしての彼らが大好きで、私にとっては歌もダンスもトークも、あくまで彼らの魅力を表現するための手段のひとつだと思っています。どんな手段でも”愛されれば良い”。それが私の思うアイドル。

 

音楽一筋で、なんてことは大きいジャニーズ事務所ですからやることはできるでしょう。ですが、渋谷すばるさんの中でジャニーズのアイドル 関ジャニ∞ として追える音楽のビジョンと、彼が追求したい音楽のビジョンが遠すぎて、離れすぎて、動くなら今しかないということなのだろうなと。

 

とっても身近な言葉で言えば転職。不幸せになるために転職する人はいません。外的要因が無ければ、今が辛いから・満足できないからという理由でする方が多いと思います。幸せになるためにするんです。けれども、それをするにはあ影響を与えた人が多すぎた。

 

歴の長いeighterの皆様の辛さ・痛みは計り知れません。

 

私はファンクラブに入った矢先で、お金を払い会報と会員証を受け取ってから1ヵ月も経っておりませんでした。正直に言いますと、ここ数日の報道も相まって喪失感の他に、彼らに「萎えた」のは事実です。

 

ですが、私は会見で村上君の言った「きちんと6人でやっていけるんだなと提示できるのが最善」という言葉を見て、再び心を投資しようと思いました。

 

関ジャニ∞は多彩だったからこそ、色んなジャンルでお互いを補完している姿と、そのメンバーに倣って意識した立ち振る舞いをするところにプロ意識を感じたのも好きになった理由の一つです。

きっとそのプロ意識で、またキラキラした関ジャニ∞というアイドルを魅せてくれようと努力なさるのだと思います。

 

私はファンクラブに入ったばかりなので、また心新たに走る彼らを1年間見て結論を出します。どうか、またいちファンとして大好きと言わせてください。私をeighterにしてください。

そしていつか、音楽家渋谷すばるのファンになれることを祈っております。

 

 

 

ですが、今だけは渇いた花になっても良いですよね?